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「お母さん」がいない世界で生きるということ~「お母さんがわり」を探し続ける大人たち

人は、生まれた瞬間から、
もう子宮には還れない場所に立たされる。
それでも、生きていくしかない。
自分の足で立ち、
この世界で歩いていくしかない。
けれど現実は、
思い描いていたようには進まない。
転び、間違え、
失い、失敗する。
その繰り返しの中で、
人はふと、こんな不安にとらわれる。
——これが、ずっと続くのではないか。
この不安にさらされ続けると、
心の中に、
劣等感や罪悪感、怒りが溜まっていく。
「自分は足りないのではないか」
「間違えてはいけなかったのではないか」
「なぜ、こんな思いをしなければならないのか」
それは性格の問題でも、
努力不足でもない。
世界に出て生きようとする人が、
必ず背負う負荷だ。
安心という名の「お母さんがわり」
人は、不安になると、
安心という名の「お母さんがわり」を探し始める。
それは、人かもしれない。
理論かもしれない。
コミュニティや肩書き、
正しそうな考え方であることもある。
そこにいれば、守られている気がする。
間違えなくて済むような気がする。
少しだけ、力を抜ける。
けれど、その「お母さん」が
自分の期待通りでなくなった瞬間、
違和感が生まれる。
分かってくれない。
守ってくれない。
思ったほど優しくない。
正解をくれない。
すると人は、
その場所を「違う」と切り捨て、
また別の「お母さん」を探し始める。
より安心できそうな人。
より正しそうな教え。
より居心地のいい場所。
こうして、
安住先を渡り歩く人生が始まる。
なぜ、安心は長く続かないのか
どれだけ場所を変えても、
安心は長くは続かない。
なぜなら、
求めているのが「世界で生きる力」ではなく、
守られていた感覚の再現だからだ。
安心を外に預ける限り、
その存在が揺らいだ瞬間、人生も一緒に揺らぐ。
ここで人は、
見ないふりをしてきた選択を迫られる。
新しい「お母さん」を探し続けるのか。
それとも、不安を抱えたまま、
自分の足で立つ段階へ進むのか。
劣等感・罪悪感・怒りが噴き上がる理由
安心を外に求める生き方をやめると、
最初に起きるのは、楽になることではない。
抑えてきたものが、一気に表に出てくる。
劣等感。
罪悪感。
怒り。
それらは、「越えるべき敵」ではない。
これまで人生を止めていた
安全装置が外れた証拠だ。
ここで多くの人が、
再び「お母さんがわり」に戻ろうとする。
苦しいから。怖いから。
一人で立っている感じがするから。
けれど、ここを通らなければ、
人生は本当には始まらない。
「自分を信じる」「自分を信頼する」とは
自分を信じるとは、
うまくいくと信じることではない。
自分を信頼するとは、
失敗しないと信じることでもない。
転んでも、間違えても、
失っても、それでも立ち上がる力があると、
自分を見捨てないことだ。
誰かが保証してくれなくても、
正解を教えてくれる人がいなくても、
それでも、自分の感覚を引き受けて進む。
それが、
「お母さん」がいない世界で生きる、
ということだ。
子宮に還らない、生き方
癒しは、ゴールではない。
準備だ。
安心に戻るためのものではなく、
戻らずに生きるためのものだ。
戻らない。
探さない。
代わりを立てない。
劣等感や罪悪感、怒りを抱えたままでも、
人生は前に進める。
むしろ、
それらを抱えられるようになったとき、
人はようやく、自分の人生を創り始める。
子宮に還らなくていい。
世界に出て、生きていい。
それは、
楽になる選択ではない。
けれど、
真の自由に向かって生きる選択だ。
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