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役割を守るほど、人生が削られていく~ 役割ではなく、自分の感覚を基準に生き直すまで

役割に縛られていくとき
必要とされたい。
役に立ちたい。
そう思ってきた。
願っていた姿になれたはずなのに、
叶った頃から、なぜか少しずつ苦しくなる。
でも、やめたい、とか、もう降りたい、とは
思ってはいけない気がする。
ここで私が抜けたら、
「迷惑をかける」「期待を裏切る」から。
そんな心の声に押され、
気づけば、罪悪感が広がっていく。
苦しくても、限界でも、続けるしかないと思う。
いっそ、病気になってしまえばいい。
ふと、そんな考えがよぎる。
正当な理由がなければ、やめられないから。
そして本当に、体調を崩して、やめることになる。
ホッとした気持ちと、逃げたような気持ち。
後味の悪さが残る。
そうやって、守ろうとした役割のために、
だんだん人生が削られていく。
役割を降りたあとの現実
役割を降りたあと、すぐに楽になるわけではなかった。
時間ができたはずなのに、何をしていいのか分からない。
誰にも必要とされていない気がして、
役に立っていない自分が、少し心細い。
「もう、頑張らなくていい」そう言われても、
どう力を抜けばいいのか分からない。
何かしなければ。
何か役に立たなければ。
また、役割を探しそうになる。
でも、
もう一度あの場所に戻りたいかと聞かれたら、
答えは出ない。
苦しかったことを、体は覚えているから。
しばらくは、何者でもない時間が続く。
役に立たない時間。
評価されない時間。
説明しなくていい時間。
その中で、少しずつ気づく。
「何かをしていなくても、私はここにいる」
役割がなくても、期待に応えなくても、
人生は止まらない。
削られなくなった分だけ、静かに、戻ってくるものがある。
体の感覚。
呼吸。
朝と夜の区別。
そして、もう一度誰かの役に立つとしても、
それは、「守らなければならない役割」ではなく、
自分で選び直した関わりでいいと、
あとから分かってくる。
何者でもない時間が怖い理由
何者でもない時間が、落ち着かないのは、
怠けているからではない。
人は長いあいだ、
「役に立つ自分」「期待に応える自分」として、
存在の許可を、行動や成果と引き換えにしてきた。
何もしなくていい時間は、休息ではなく、
居場所を失った感覚になる。
役割を降りると、評価の声も消える。
褒められない。
必要とされない。
そんな中で、昔の感覚が、ふと戻ってくる。
何もしなかったら、ここにいてはいけない気がした、
あの感じ。
怒っている大人を前に、空気を読んで、自分を小さくした時。
「いい子でいれば大丈夫」そう思って、
「役割」を引き受けた、あの頃。
役割を失う怖さは、未来の不安ではなく、
過去の記憶だ。
だから人は、また急いで、次の役割を探す。
新しい肩書き。
新しい責任。
新しい「必要とされ方」。
安心したいだけなのに、また同じ鎖を、
自分でつけそうになる。
フラットな感覚という新しい基準
でも今は、何もしていなくても、追い出されない。
役に立たなくても、責められない。
ただ、フラットな感覚。
そして、この感覚が、これから選ぶ関わりを、
少しずつ変えていく。
役割ではなく、
自分の感覚を基準に、
生き直そう。





