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チェロを、また弾こうと思えた日

41歳から続けてきたチェロは、
なぜか「続ける」「やめる」を、
きれいに繰り返してきました。
3年弾いて、3年休む。
それを、3回以上。
やめるときも、
「もういい」と思ったわけではなく、
戻るときも、
「よし、再開しよう」と決めたわけでもない。
ただ、必要なときに離れ、
必要なときに、また手に取る。
そんな関係でした。
1年10か月前、
85歳の先生が体調不良でレッスンを休止されてから、
私は一度もチェロを弾いていませんでした。
弾けなかった、というより、
弾こうと思わなかった。
忙しかったわけでも、
嫌いになったわけでもありません。
ただ、その間、
私はずっと「心」を使って生きていた。
誰かのために。
何かの役割のために。
前に進むために。
今思えば、
心を預けっぱなしにしていた
1年10か月でした。
3日前、
なぜか突然、チェロを弾きたくなりました。
理由はありません。
懐かしくなったわけでも、
上手くなりたいと思ったわけでもない。
ただ、
「今なら、触れそうだ」
そんな感じでした。
久しぶりにケースを開け、
チューニングをしていたら、
G線が、ぷつん、と切れました。
どうしよう。
せっかく弾く気になったのに…。
弦をネットで注文しました。
届くまで3日。
そのままケースにしまう気になれなくて、
A線とD線だけで弾ける曲はないかな、と思ったら、
ちょうど開いていた楽譜がありました。
「白鳥」。
そのまま、弾きました。
体はちゃんと覚えていました。
あ~、そうそう。
この感覚。この距離感…。
弾きながら、分かったことがあります。
この1年10か月、
私は、役割を生きてしまい過ぎて
ちょっと心をなくしていたんだな、と。
チェロは、
私にとって表現でも、趣味でもなく、
自分と繋がる「心のチューニング」だった。
音程を合わせるためじゃない。
誰かに聴かせるためでもない。
自分の中の深いところ、
大切な場所にアクセスし、
「何者でもない私」に触れ
静かに呼吸する時間だった。
G線がなくても、
先生がいなくても、
今は、
それで、十分でした。
弾けたことより、
弾こうと思えたことが、
何より、うれしかった。
それは、
すべての役割から降りて、
自分に戻ってきた、という感覚。
お母さん、先生、心理セラピスト。
何物でもない「わたし」。
ずっと忘れていた。
何もしなくても、私でいられる時間…。
今、チェロの音色の中に、
それを感じています。





