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執着は、“愛”ではなかった

── わかってほしかった、あの小さな心のままで
「こんなに想ってるのに、どうして伝わらないんだろう」
「忘れたいのに、なぜか忘れられない」
「何度離れようとしても、また戻ってしまう」
それは、愛が深いからじゃない。優しすぎるからでもない。
もしかしたらそれは──執着という名の、「自分では自分を幸せにできない」と信じている“赤ちゃんの心”だったのかもしれません。
執着は、「愛されなかった記憶」にしがみつく行為
執着とは、「その人を愛している」のではなく、“その人を通して得られる安心”にしがみついている状態です。
- わかってほしい
- 離れないでほしい
- 無条件で抱きしめてほしい
それはまるで、お母さんに泣きながら手を伸ばす赤ちゃんのような感情。
執着は、自分で自分を幸せにできない!
そう信じてしまっている“赤ちゃんの私”が、必死に誰かにしがみついている状態。
そしてこの「赤ちゃん度」が大きいほど、しがみつきは強くなり、苦しみは深く、長引きます。
「愛だと思っていたけど、本当は怖かった」
多くの人が、「愛しているから苦しい」と思っています。
でも実際には、その奥にあるのは“怖さ”です。
- この人を失ったら私は壊れてしまう
- ひとりになったら、もう生きていけない気がする
- 他に代わりなんていない
これはもう、「愛」ではなく「依存」。
「共に歩む」ではなく「相手に寄りかかる」形。
でも、悪いことではありません。
それはただ、まだ満たされていない赤ちゃんごころが、「わかってほしい」「愛してほしい」と泣いているだけなんです。
執着の奥には、「お母さんを待っていた私」がいる
執着の本当のターゲットは、今の恋人ではありません。
本当はずっと、「わたしをちゃんと見てくれるはずだったお母さん」を待っていたのです。
- 泣いても、抱っこしてくれなかった
- わかってくれなかった
- ひとりぼっちのまま放っておかれた
その記憶の再生が、恋愛に投影されている。
だから、満たされないほどに執着が深まり、終わった恋にも、手放せない感情だけが残ってしまうのです。
執着を終わらせるには、「子宮に還る旅」を終えること
多くの人が無意識に求めているのは、愛ではなく、安心。
それも、赤ちゃんが子宮の中で感じていたような、「ただ生きているだけで包まれているような安心感」。
でも、大人になった私たちは、もう「子宮の中」には戻れません。
執着を手放すということは、“子宮に還る旅”を終え、世界で生きていける私に育ち直すことなのです。
わたしが、わたしを幸せにできるようになったとき
執着が終わるとき、それは「諦め」ではありません。
「もう、この人じゃなくても大丈夫」
「もう、あの人に満たしてもらわなくても平気」
そう静かに思えたとき。
それは、愛の終わりではなく──
自分の人生が、自分の手に戻ってきた瞬間です。
わたしが、わたしの“親代わり”をし、わたしの“パートナー”になっていく。
すると不思議なほど、
あれほど執着していた相手のことが、すっと遠くなっていきます。
執着が消えたあとに残るもの
執着が消えたあとに残るのは、
“わかってほしかった小さな私”への静かなまなざし──
そしてその先に、ふと立ち現れてくるものがあります。
それは、誰にも依存しない自由。
他人の顔色ではなく、自分の感覚で生きられる自分軸。
誰かに満たしてもらうのではなく、内側からあふれてくるはじめての満たされ感。
「人生って面白いかも」
「何か新しいことをやってみたい」
そんなふうに思える前向きな衝動や、人の痛みにも自然と寄り添えるやわらかい思いやり。心が軽くなり、頭がクリアになっていく。
執着を手放すとは、“愛されたい私”を卒業して、“生きてみたい私”に出会う旅なのです。
あなたへの問いかけ
あなたが今しがみついているのは、本当に「その人」ですか?
それとも、「わかってもらえなかったあの頃のあなた」ですか?
執着が消えたとき、初めてその問いに、静かに答えられるようになります。
そしてきっとそこから、本当の“愛の物語”が始まっていくのです。
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