Story「晩秋の輝き」

 

晩秋の輝き

 

窓から眺める景色は、もう秋の気配を漂わせている。
透き通った水色の空と大きなかたまりのような雲。
そしてときおり流れてくる冷ややかな風を感じながら、彼は遠い目をしていた。

 

今日は夏休み明け最初の授業だ。
長過ぎたバカンスで少し回転のにぶくなった頭のリハビリには、もうしばらく時間が必要だ。
授業の準備は十分しているけれど、なかなかいつものようにエンジンはかからない。
生徒の課題の発表を順に聞きながら、ふーっと意識が遠のいていくことを、もう止めようとは思わなくなっていた。

 

彼はある学校で心理学を教えている。この学校で教えるようになってから7年が過ぎようとしていた。
以前の彼は全く違う分野の様々な仕事をしてきたが、学生時代からの自己探究、心理療法の学びと実践の中、
縁があり今の仕事へと導かれてきた。

 

彼は今年で56歳になり、10歳はなれた妻とは20年前に結婚し、子供が二人。
細見で背が高くすっきりした体型、穏やかさの中の深くするどい瞳、
そして口ひげが、いつも自信に満ち溢れているように見える。

幼い頃長男だった彼に、両親はとても厳しかった。
口ごたえは許さず、失敗を激しく指摘し、感情を出してはいけないと言われつづけてきた。
母親に抱かれた記憶はほとんどなく、いつも親の目を気にしながら、親の期待に応えるように生きてきた。

大学進学の為、家を離れて下宿住まいを始めた時ほど自由で解放的な気持ちになったことはなかった。
もうしばらくは何をしても何を言っても抑えつけられるものはないと思った。

 

高校時代から彼のまわりにはたくさんの友人がいた。
持ち前のユーモアと回転の早いツボを押えたジョーク、さりげない押しの強さが魅力だった。
多くの言葉と知識を持ち、自分のことを批判や否定しようものなら激しく言葉でやりこめ、負けることは決してなかった。
いつもグループの中心的存在でありたいと願い、友人達から尊敬のまなざしで見つめられることを好んだ。
自分は人よりも精神的に先を進んでいて、決して表にはださないけれど、人とは違い神から選ばれた人間のように思っていた。

社会人になってからは会社に属するのを嫌い、自分で事業を起こした。
いくつか失敗を重ねながらもそれなりに成功し、裕福な生活を満喫しブランド品で身を固めていた。

 

彼にはいつもたくさんの女性が引き寄せられてきた。ひとりの女性とつきあっている時でも、
平気で他の女性とつきあうことができた。
相手に対する好奇心と、やさしく包み込む母親の理想像、ぬくもりを求め、何人かの女性とかかわったが、
いつも何かこの自分では満足していないような気がしてならなかった。
それを相手に確認する勇気もなく、どのつきあいも長くは続かなかった。

 

妻とは彼の贅沢病がいささか落ち着いた頃に出会い、1年の交際期間を経て結婚した。
自分に従順で静かな妻を彼は愛し、安心とやすらぎを感じていた。

 

彼の30代は波乱万丈だった。軌道に乗っていた事業は脱税がばれ、多額の支払を余儀なくされた。
従業員の給与や賞与も払えず、裁判に持ち込む人が後をたたなかった。
その間、妻には子供が次々と生まれたが、家庭を顧みる余裕すらなかった。

ただじっと待ちつづける妻を背中で感じながらも、体裁作りに忙しく、
たまに家に帰るとついえらそうな暴君の役を演じてしまうのだ。

結局会社は倒産し、激しい自己嫌悪と自責の念に襲われ、しばらくの間立ち直ることはできなかった。
この時のことが大きなきっかけとなり、自分の内側や心、精神面に強く関心を持つようになっていった。

 

彼は生徒達を前に授業をすることが心地よかった。自分は人に何かを与えられる人間で、
自分に注目してくれることが何よりも嬉しかった。
時折、意見を堂々と言ってくる生徒もいたが、学生時代のやりこめる言い方ではなく、やんわり受け止め、
かわす術(すべ)も年齢と共に心得てきた。相手を傷つけないように、けれど本当は自分が傷つきたくなかった。

生徒やクライアントの前では誠実でやさしく尊敬されるような印象を保つが、家では違った。
妻と口論になると妻に意見を言わせない程言葉巧みにまくしたて、
逆に何か大切なことを決める時は常に妻に決めてもらっていた。

 

彼は結婚後も数人の女性と深い関係を続けた。
相手から結婚をほのめかされたり束縛を感じると、距離をとり自然消滅に持っていった。
彼の場合、女性との関係は浮気でも不倫でもなく、人間対人間のお互い高め合う関係に過ぎないと思っていた。
自分とつきあうことで女性達を育て癒していると思っていた。

表面的には罪悪感を感じたことはなかった。
けれど妻が他の男性にくみ敷かれている妄想が時折湧き上がり、そのたび激しい嫉妬を感じ苦しくなっていた。

外では自由でいたい。男とはこういうものだ。
妻や子供たちのことは愛している。

けれどこの暖かい家庭、妻や子供達を失う恐れと不安は常につきまとい、この環境を決して壊したくないと思っていた。

 

 

ある日、彼の妻は体調を崩し、3ヵ月間の闘病生活の末、突然この世を去った。
まさかこんなに早く逝ってしまうとは思いもしなかった。
葬儀には彼の職場の仲間や古くからの知り合い、その他大勢の人が参列し、盛大に行なわれた。

 

妻を亡くした深い悲しみと同時に、自分がいかに友人知人を多く持っているかをひそかに喜ばしく誇りに思っていた。

 

四十九日を終え、あれだけ人が入れ替わり訪れていたのが、パッタリと途絶えた。

 

子供達はそれぞれ自分のアパートに戻り、それぞれの生活を始めた。ガランとした温もりのない部屋の中でただひとり。
いつも空気のようにそこに存在していたものが、覚悟していたとはいえある日突然いなくなるということは、
こんなにも空虚で胸の真ん中が凍りつくような感覚なのだろうか。

 

妻の言葉、妻の声が頭の中で響く。一緒に選んだ家具、一緒に過ごした部屋。

家全体が妻の思い出で一杯で、いてもたってもいられなくなる。

これからどのように生きていけばいいのか、自分は今ここに存在しているのか、
数ヵ月間はまるでぬけがらのようだった。

 

 

彼はそれからも、深い悲しみから立ち直ることはなかなかできなかった。

 

妻にもっとやさしくしてあげればよかった、もっと大切にしてあげればよかったと、自分を責め続けた。

 

そんな状態であっても、仕事ではクライアントや生徒と接しなければいけなかった。

けれど以前のように、自分は人より優秀だという見下す気持ちはなく、
クライアントとの関係は、親身で深く温かいものになっていた。

 

妻が生きていた時は、身のまわりのことをすべてやってもらっていたが、
炊事や洗濯もなんとかこなせるようになり、服も自分で選べるようになった。

 

妻の三回忌が過ぎ、彼のもとに高校時代の同窓会の知らせが届いた。
まめに開かれている同窓会だが、ここ十数年出席したことはなかった。

なにか懐かしさを感じ、また、自分が育ったふるさとに行ってみたい気持ちもあり、
思い切って出席することにした。

 

彼の両親はもうとうに亡くなっており、家もない。
高校の古い校舎は建て替えられ、面影すらないが、通学途中の景色はまだ昔を思い出させる。
当時つきあっていた彼女と肩を並べ歩いたあの日が、まるで昨日のことのようだ。

 

同窓会会場では、男女合わせてたくさんの人がいくつかのグループに分かれ、懐かしそうに立ち話をしていた。
もう60過ぎのいい年寄り達だが、心は思春期の頃に逆戻りしている。
そんな彼らを眺めながら、自分もそんな気持ちになっていることを否定できなかった。

 

ふと話しこんでいるグループの中のひとりの女性と偶然目があった。
昔つきあっていた彼女だった。若かりし頃の面影を漂わせながら、
年齢を重ねた深い豊かさを感じる素敵な女性になっていた。

話を聞くと、彼女の夫は15年前に亡くなったのだそうだ。
若かりし頃の様々な思い出や、お互い生きてきた今までの人生を語り合い、
とても楽しい有意義な時を過ごした。

彼女とは自然と連絡先を教え合い、またいつかお会いしましょうと約束をして同窓会を後にした。

 

その後同窓会があったことも忘れる程仕事は忙しかった。
そんな時、彼女から1通の手紙が届いた。

 

「…先日は話がはずみ、とても楽しい時間を過ごせました。
……お互いに深い悲しみを体験し、そして乗り越えてきましたね。
残された人生、後悔なきようイキイキと生きていきたいと思っています。
よければこれからも、どうぞ宜しく御願い致します・・・」

 

美しい文字、言葉がそこにつづられていた。

 

彼は自分の中に、若い頃の恋愛感情とは違う、
もっと温かくもっと深い豊かな感情が湧き起こってくるのを感じた。

 

そして彼女との関係を、
これからゆっくり大切に育てていきたい、と、

 

心から思った。

mami nishitani

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